これほどリアルなカーレース映画があったでしょうか。
『栄光のルマン』レーシング映画らしからぬオープニング
1台の黒いポルシェが早朝の田舎道を軽快に走っています。
その映像のバックにはミシェル・ルグランの優しいBGM。
それはまるで風景画の名画の趣です。
カーレーシングの映画に似つかわしくないこの美しいオープニング。
このオープニングで、パリから約200kmにある、人口15万人に満たない小さな地方都市ル・マンが、静かで落ち着いた街だとわたしは初めて知りました。
物思いにふけるような男の目
やがて黒いポルシェはル・マンの古い街並に入ると、街角で花を買う1人の女性を横に見ながらゆっくりと走り去ります。
それから車はガードレールが続く道路に走り込み、とある場所で停車しました。
車から降りてきた男が見つめるのは、風雨と排気ガスで煤けたものばかりの中で、そこだけが新しいガードレール。
物思いにふけるような男の目は、その新しいガードレールの向こうに、去年の出来事を見ていたのでした。
男はスティーブ・マクィーン演ずる主人公のマイケル・デラニー。
彼は昨年のレース中の他車とのクラッシュで大けがを負い、相手のドライバーは死にました。
街中で見かけた女性は、その男の恋人だったのです。
マイケル・デラニーの回想シーンへ
以後のストーリーの背景となるこれらの事情を、デラニーの回想という形の映像が教えてくれます。
この回想シーンは、真っ暗な闇に走るヘッドライトの光とマシンの甲高い走行音で始まります。
やがて激しいブレーキ音と燃え上がる炎。
そして明滅する緊急ランプと鳴り響くベル音の中、恋人の安否を気遣って茫然とする女性が、街角にいた女性だと知ることができるのです。
抒情的な風景の映像から一転して、恐ろしいクラッシュの現実を見せ付けられたわたしの気持ちは、一挙にレーシングモードに突入しました。
まずは優しい魅力で観客を引き込み、それから朧な悪夢の雰囲気で厳しい将来の現実を予感させる。
このあたりがこのオープニングの秀逸なところです。
『栄光のルマン』でわたしはル・マンの街に立っていました
一連のオープニングの後、シーンはまだ目覚めていないレース当日の早朝の街になります。
観客用の広大な駐車場には一台も車が止まっていません。
一方でたくさんの人々がまだ眠りこけています。
立ち並ぶテントで。
自家用車のシートで。
寝袋で。
中には地面に直接寝ている人も。
早朝の静けさから目覚めて
やがて少しづつ人々は動き始めます。
歯を磨き、コーヒーを飲む。街角では道を掃く人がおり、警察署では今日の混雑に備えて、多くの警察官が出動していきます。
街中に活動と騒音が溢れ始めます。
その頃になるとル・マンに入る道路に長い車列が発生しています。
レース場の駐車場がどんどん埋まっていきます。
世紀の大レースを観に来た人たちの興奮が街に充満し、それがわたしを飲み込んでしまいました。
そう、まるで自分が本当にル・マンにいるかのように。
見事な映像の演出がわたしをル・マンの街に放り込んでくれました。
場面は変わり、レース場の舞台裏
レーシングカーが運び込まれ、ドライバーたちは戦いの準備をしています。
街中の熱っぽい落ち着かない空気とは違い、そこは抑えられた静かな緊張感が支配しています。
やがてレーズ場にドライバーが姿を現すと、その二つの空気感は混ざり合って急膨張し、スタートの瞬間へと凝縮していきます。
秒針が時を刻み、0の文字と重なったその瞬間、わたしは圧倒的な爆発感に包まれていました。
いままでに感じたことのない初めての体験と言って過言ではありませんでした!
でも画面の中で何が起るのかを説明はしないでおきます。
このスタートシーンでの、緊張の高まりから爆発にかけての映像は至高のものだからです。
これからこの映画を見る人に絶対それを味わって貰いたいのです。
その時は、ヘッドホンをして音量を目一杯上げて下さい。
できれば大画面で。
マイケル・デラニー=スティーブ・マクィーン?
スタート以後の映像は息つく暇もない、レーシングマシンの緊迫した走行シーンの連続で、この映画のメインにして最大の見どころです。
追い越し追い越され、抜きつ抜かれつする、マシンの激しい咆哮が延々と響き渡ります。
その中でクラッシュがあり、ちょっと息抜きがあり、そして最後の死闘へと突入していきます。
いやはや、とにかくそのド迫力には肝を潰されました。
圧巻という言葉そのものです!
そんな映像に男の、女の、そして人間のドラマがほんの少し絡み、ストーリーに適度な深みを与えています。
マクィーンの車好きは有名
車への関心の高さは趣味の範囲を遥かに超えたものでした。
4歳のとき、誕生にプレゼントされた赤い三輪車で、自宅裏の土手を走り降りる競争でいつも1番だったのが自分のレース熱の始まりだと、マクィーンは述懐しています。
少年時代のマクィーンは家庭的には全く恵まれず、その憂さを晴らすかのようにドラッグレースにのめり込みました。
俳優として成功した後もレース活動を続ける
輝かしいキャリアを積んだ後もスピードレースに出場して優勝するなど、レース活動を続けます。
大俳優となったスティーブのそんなレース活動に対しては、怪我などにより撮影不能になった場合には損害賠償訴訟を起すというような、映画関係の会社からの否定的な圧力もありました。
しかし、それでも彼の情熱が屈することはありませんでした。
カーレースは人生そのもの
マクィーンのとってカーレースとは決して趣味ではなく、人生そのものだったのでしょう。
マクィーンにとって俳優という仕事は、不良少年の更生施設に収容されるほど荒れた過去を持つ彼が喰っていくためにたまたま選び、その才能が発揮されて結果的に成功した職業に過ぎなかったのかもしれません。
実際、レーシングチームからプロドライバーとしての誘いがあり、本気で転向を考えたといいます。
それは「荒野の七人」や「大脱走」などへの出演で俳優として人気急上昇中だった頃で、2人の子の父となっていたスティーブは自分の人生の夢より現実の生活を選んだのでした。
「本物」のカーレース映画を撮りたい
そんなスティーブが「本物」のカーレース映画を撮りたい、と思う様になったのは当然至極なことだったでしょう。
「本格的」ではなく「本物」です。
特撮や合成ではなく、実際のレースコースを走る本物のレーシングカーの映像です。
それがこの映画のレースシーンなのです。
迫力が半端じゃないのは当たり前です。
人気監督ジョン・スタージェスがメガホンを撮ったものの…
当初の監督は『荒野の七人』『大脱走』などを撮ったジョン・スタージェス。
しかし人気俳優をキャストしてストーリー性を重視したいスタージェスと、「本物」を追求するためにレースシーン以外は必要な最小限にしたいマクィーンは対立し、スタージェスは降板してしまいます。
後にスタージェスはこの映画を、
「自分が主人公のレーサーを演じ、ル・マンでポルシェを乗り回したいだけだ」と評していました。
それは悪評ではあるのですが、けだし的を得ているのかもしれません。
なぜならスティーブは自分の理想とするカーレースの世界を描きたかったからです。
自分が歩みたかったプロレーサーとしての人生をです。
自身がプロレーサーになっていたらきっとこんな人生を送っていたのだろう、
こんな人生でありたかった、という思いを彼は映画にしたかったのではないでしょうか?
映画のある場面でデラニーが呟く言葉があります。
”Race is life.”「レースが人生なんだ」。
それはマクィーン自身の心の叫びなのだと思います。
この一事をこそ、彼はこの映画で描きたかったのに違いありません。
マイケル・デラニーはマクィーンが演じているのではなく、実にスティーブ・マクィーンその人だったのだと私は思います。
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