『油屋』は物語の中で千尋が働くことになった湯屋です。
作中では『八百万の神様たちが疲れを癒しに来るお湯屋』(湯婆婆談)とされています。
しかしこの油屋、実は遊郭なのではないかと噂されています。
遊郭とは遊女を集めた施設、または公娼街のことで、安土桃山時代にまで遡れる歴史。
なぜ油屋が遊郭だと言われているのか、その理由を考察していきましょう。
油屋で働く女たちは?
そもそも遊郭のルーツは、古代より女性による接待が行われていた神社であると言われています。
神社に仕える女性といえば巫女ですね。
ここで本作に登場する油屋の女たちを見てみると……。
そう、巫女のような格好をしている女がちらほらいるのです。
彼女たちは作中で、化粧が濃かったり胸がはだけていたりとやたらと色っぽく描かれているのが特徴です。
そうすると、神々に接待してるのは巫女服を着た彼女たちであると考えられます。
一方で千尋やリンは、朱色の和服を着ていますよね。
主に清掃をしている描写が目立ちます。
油屋の役割は服装で分けられているようですね。
千尋は物語の途中で一度だけ腐れ神の接待をしているので、完全に役割が分けられているというわけではないようです。
しかしこれについては、人間であり常識に欠ける両親を持つ千尋のことが気に入らない湯婆婆が意地悪で仕向けただけかもしれません
赤い建物が意味するもの
次に注目するのは油屋の外観です。
外壁は赤が基調で金色の装飾が施された華美な造り。
江戸時代に栄えていた遊郭も赤色の建物でした。
風俗の象徴風景
現代では風俗といえばホテル街に見られるネオンを想像しますが、昔は赤の建物が遊郭を象徴していたようです(夜の油屋は煌びやかに描かれていますが、もしかしたら提灯のネオンがかった建物の描写は現代の風俗を示唆しているのかもしれません……)。
また、油屋には大きな橋が架かっており、周囲は塀で囲われています。
この世界には油屋の他に多くの食べ物屋がありますが、明らかに油屋だけが孤立しています。
今も有名な『吉原』
避妊具もろくにない時代、家族のためとはいえ逃げ出したいほど辛い仕事をしていたということですね……。
遊郭は必ずしもソープのように風呂場での接待を行うものではありませんが、1640年頃から吉原遊郭の周辺には風呂屋(湯女)が多く現れるようになったと言います。
その勢いは止まることを知らず、吉原遊郭の中にまで風呂屋が進出したそうです。
このことから、吉原遊郭規模の大きな遊郭をモデルにしている説もありそうですね。
湯婆婆と千尋の契約
水商売といえば、キャバクラにしてもソープにしても源氏名を使うのが一般的でしょう。
油屋では湯婆婆が名前を奪うことで、労働の契約が結ばれます。
そして代わりの名を与えるのです。
ただのお湯屋で違う名を名乗る必要があるのか?
この時点でもう風俗の匂いがします。
加えてポイントになるのは、千尋が油屋で働くことになった理由です。
それは明確で『ブタにされた両親を救うこと』です。
しかし千尋にはその力も知識もありません。
だから湯婆婆のもとで働くしかない。
『学のない女性が家族のために風俗で働く』ステレオタイプな流れ
ハクは「この世界で仕事を持たないものは湯婆婆に動物にされてしまう」と言っていました。
どんな仕事でもいいから今すぐ始めなければならない。
そんな状況に置かれた女性が思いつく職業が風俗というのも妥当でしょう。
この契約は、身分が低かったり低学歴だったりする女性が、風俗嬢になるという現代社会の風刺なのかもしれません。
他にも風俗を隠喩する場面はあります。
契約の前、湯婆婆は千尋に「1番辛いキツい仕事を死ぬまでやらせてやろうか」と鬼のような形相で言い迫り脅しています。
先述のとおり、江戸時代の遊女は貧しい暮らしから家族を助けるために働いています。
ここで言う辛い仕事というのは、客の世話をする遊女のことなのではないかと考察できます。
もちろんこれは仮説であり、油屋は長野県の金具温泉や群馬県の積善館がモデルになってるとの噂も。
一概に遊郭であるとはいえないでしょう。
まとめ
宮崎駿監督は千と千尋の神隠しについて「キャバクラからヒントを得た」と興味深いことを話していました。
キャバクラは誰しもがコミュニケーション能力に長けているわけではありません。
お客さんの喜ぶ会話術を少しずつ身に着けることで成長することができるのであり、コミュ力を学ぶ場であるというのが宮崎監督の考えです。
こういった見解からも本作には社会を風刺した表面上では伝えきれないメッセージが隠されていると思います。
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