千尋が銭婆の家へ行くために電車に乗ります。
全体的に不安になる寂しいシーンですよね。
結構乗り降りする人は多いのですが、みんな体が透けていて、顔は真っ黒で見えない
本当にココは死後の世界、一番深いところにある銭婆の家まで行ったら戻れなくもなりそうと感じてしまいます。
電車は、銭婆宅の最寄り駅「沼の底駅」へ行く途中、「沼原駅」で停まります。
一体誰なんでしょうか?
沼原駅のホームにいたオカッパ頭の女の子は『火垂るの墓』の節子?
節子説とメイちゃん説があるけど
この沼原駅にいた少女は
「おもひでぽろぽろ」の小5のタエ子じゃないかとも思ったでも服装違うんだよなぁ pic.twitter.com/16TjuL6rj2
— まるたろう (@marumaru_taro) August 16, 2019
まず、1988年公開『火垂るの墓』に出てくる女の子、節子では?、という考えです。
おかっぱ頭で白いシャツにピンク色のスカートをはいている謎の女の子
見た感じ、昔の髪型や服装のイメージですよね。
節子が死んでしまった後、兄の清太が空腹で後を追うように…。
先に死んでしまった節子は、死後の世界で清太に会えず、ホームで会える日をずっと待ってるかのように見えます。
でも節子が死んでしまったときと、このオカッパ頭の女の子を比べると、背の高さや見た目が似ていません。
年齢も節子よりだいぶ年上に見えます。
同じジブリ映画だから、もしかすると節子かもと思った人が多くいたのではないでしょうか?
『となりもトトロ』のメイが謎の女の子?
これは、実際『となりのトトロ』の作中で、サツキやメイは死んだという都市伝説があるからです。
ただ、やはりメイとも年齢も違いますし、見た目も似ていません。
わたしは、死んでしまったあとに成長するとは考えにくいと感じます。
電車に乗っている人たちと同じような、ある意味何でもない存在だと思います。
ジブリ作品をたくさん観ていると、このキャラクターや風景似ているなぁと思うところが多いです。
そこから色んな考察が出てくるんですよね。
とても興味深く、見つけた人のコメントなんか見ていると納得したり驚くことが多いです。
謎の女の子がいた「沼原駅」
ココでほぼ全ての乗客が降りて行きました。
駅の周りは何もありませんが、遠くに灯りが見えるので住人が多い場所なのが分かりますね。
実際彼らが本当に死んでしまった人たちなのか、正式に述べられてはいません。
でも見た目や雰囲気で、なんとなく生気がないなと気づきます。
死後、彼らはここで暮らしているのかも。
6つ目の「沼の底駅」以外、残りの5つの駅の名前は?
最初の駅は千尋が最初に立ち寄った時計台
時計台には楽復の文字が刻まれていました。
実際誰も、いませんでしたが、人が待つためのベンチなんかもあり、駅の中では1番立派な作りです。
油屋近くで千尋が電車に乗った駅
雨が降り周りが海になると、その駅だけポツンと存在していました。
その次に、沼原駅の表示板に書かれていた沼原駅より1つ手前の駅「南泉駅」。
そして、「沼原駅」です。
続いて沼原駅の表示板にあったのは、そこより一つ先の駅「北沼駅」です。
最後に銭婆の家の最寄り駅、「沼の底駅」
「(仮)楽復時計台駅」→「(仮)湯屋駅」→「南泉駅」→「沼原駅」→「北沼駅」→「沼の底駅」となっています。
沼の底駅に向かうにつれて、人間世界や神さまたちの明るいイメージから暗く怖いイメージになっていくのが分かりますね。
この6つの駅が仏教の六道輪廻の考えに基づいている
六道輪廻とは、天道、人間道、修羅道、鬼畜道、餓鬼道、地獄道の6つの道を私たちの魂がぐるぐると巡っているという考えです。
[moveline color=”#afeeee” sec=”5″ thick=”40″ away=”2″]釜爺が[move]「6つ目の駅で必ず降りろ、間違えるなよ」と言っていたのも、その駅で降り損ねれば外道へと落ちてしまうから[/move]です。[/moveline]
外道は、間違った道です。
一度踏み外すと戻って来れない、誰からも助けてもらえません。
釜爺が念押しで言っていたのも分かります。
海原電鉄について
この電鉄のモデルになったのは、伊勢湾台風後の名古屋鉄道常滑線です。
伊勢湾台風は、1959年に上陸し、愛知県や三重県に多大な被害が
酷い浸水被害のなか愛知県は海上に借線路を敷き、電車を走らせていました。
この光景が、まるで電車が海面を走っているように見えたのです。
それは、まさしく復興のひかり、多くの人々の生活を力付けたに違いありません。
また、このとき走っていた電車は、名鉄3400系で「いもむし」と呼ばれていました。
作品に登場した電車に本当にそっくりです。
電車の先頭にくっついている「中道」というプレートの意味は?
それは、「進行の途中」、「両極端にとらわれず、自由な立場で行動すること」という意味です。
これも仏教の考え。
両極端といえば、湯婆婆と銭婆の存在が当てはまりますね。
銭婆は
「私たちは2人で一人前なのに気が合わなくてね」
と言っていました。
\ジブリ最大のヒット作!/
comment